1962年 |
海洋学者で作家のレイチェル・カールソンが、有機塩素系農薬や殺虫剤の大量使用による自然環境汚染を告発した「沈黙の春」出版。
しかし、この時点では生物多様性の観念は無く、害虫駆除に国内・海外を問わず天敵となる生物を使い自然の力を利用する事を主張している。
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1972年 |
早くから酸性雨等で環境汚染被害があり、国民の意識が高かったスウェーデンがイニシアチブを取り、アメリカの後押しで、ストックホルムにおいて国際的には最初の「かけがえのない地球」を合い言葉に「国連人間環境会議」が開催された。その後、同年の国連総会において「人間環境宣言」及び「環境国際行動計画」を実施に移すための機関として、国連環境計画(United Nations Environment Programme:UNEP)設立。
商業捕鯨に関する規制もこの時採択され、クジラ保護の運動が世界的に広まった。
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同 年 |
先進諸国の「経済界とその知的ブレーン」から構成された「ローマクラブ」の依頼で、マサチューセッツ工科大の研究チームにより「成長の限界」と題した報告書が出される。
大型コンピューターを駆使した未来シュミレーションで、このままの勢いが続くと人口爆発、環境汚染、食糧危機、資源枯渇により西暦2000年には地球に深刻な危機が訪れると警告した。
1940−70年代の表面気温低下と世界的な異常気象により「地球寒冷化」・「氷河期」説が世界的に支持されたのもこの頃。
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1982年 |
ストックホルム会議10周年記念の国連環境計画(UNEP)特別理事会がナイロビで開かれ、環境と開発に関する世界委員会を設け、「持続可能な開発」を提唱
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1987年 |
環境と開発に関する世界委員会より「我ら共通の未来」報告書が提出され、その後の「地球サミット」開催のきっかけとなる。
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1988年 |
80年代に入り、今度は暖かい気候が続いていた。この年の6月、猛暑の中、アメリカ上院エネルギー委員会にてNASAのジェームズ・ハンセン博士により地球温暖化である事が「99パーセントの確立で正しい(「99パーセント証言」)」と報告され、マスメディアを通じて「地球温暖化論」が世界的に発信された。
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1992年 |
ストックホルム「国連人間環境会議」から20年、その間、環境問題の重要性や共通原則を確認したにもかかわらず地球環境はさらに悪化が進みそれを打開するため、「国連環境開発会議(地球サミット)」がリオデジャネイロで開催。
環境と開発に関する「リオ宣言」、21世紀に向けての行動計画「アジェンダ21」、持続可能な森林管理を謳った「森林原則声明」を採択。
加えて、「気候変動枠組み条約(地球温暖化防止)」・「生物多様性条約」への署名への合意が形成された。
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1993年 |
地球サミットの採択を受け、世界の生物多様性を保全するため「生物多様性条約」が作られ、日本は、18番目(先進国中2番目)の締約国として批准
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1995年 |
生物多様性条約第6条に基づき、日本は、「生物多様性国家戦略」を策定
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2000年 |
環境省に野生生物保護対策検討会・移入種問題分科会が設置される。
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2001年 |
小泉総理大臣の所信表明の中で自然と共生する社会の実現が重要な政策課題として掲げられ、中央環境審議会自然環境・野生生物合同部会下に生物多様性国家戦略小委員会を設置して、国家戦略の見直しについて審議(3月、中央環境審議会野生生物部会-第1回)を開始
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2002年 |
「新・生物多様性国家戦略」が策定される。
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同 年 |
南アフリカにおいて「持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルグサミット)」開催。
地球サミット以降生じてきた新たな課題などについて議論を行った。
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2003年 |
1月 中央環境審議会総会(第4回)にて、移入種の法制化に向け小委員会を設置。
3月 野生生物部会移入種対策小委員会が開催され全10回の会合を経て、
12月に中間報告「移入種対策に関する措置の在り方」において法制化を求める答申が出される。
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2004年 |
法制化に向けて、野生生物部会移入種対策小委員会が設置され、パブリックコメントをはさみ3回の検討経て、「特定外来生物による生態系に係る被害を防止するための基本方針案の作成について」の答申が出さる。
平成16年5月27日 「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律案」が、衆議院本会議で可決され成立。6月2日に公布。
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